井田 隆研究紹介

新しい粉末構造解析法

リートベルト法と比較して,より正確な構造推定を可能にする新しい粉末構造解析法を考案しました。

微細な粉末を得難い場合や,重元素を多く含み吸収の強い物質の場合に特に効果的のようです。

原著論文 [Ida, T. & Izumi, F. (2011). J. Appl. Cryst., 44, 921-927 (2011)] が既に公開されています。

短い解説:[→ ida_izumi_j.pdf

Igor Pro アプリケーションパッケージ,2011年6月30日版:[→ idaizumi20110630.zip
Wavemetrics 社 Igor Pro マクロによる実装,マニュアル,チュートリアルを含んでいます。

Igor Pro アプリケーションパッケージ,2011年12月27日版:[→ idaizumi20111227.zip
Wavemetrics 社 Igor Pro マクロによる実装,マニュアル,チュートリアルを含んでいます。データ読み込みの速度が改善されています。


背景の説明

この新しい構造解析法は,粉末回折法の本質的な問題を解決しようとする取り組みから自然に導かれました。以下に背景となることがらを説明します。

粉末回折法の本質的な問題

粉末回折法による構造解析は,試料粉末中に回折条件を満たす結晶の粒が相当な数(例えば 1 万個くらい)存在することを前提とします。 ところが,この前提を実現することはかなり大変なことです。 このことはブラッグの法則とX線回折装置の部品の配置・寸法を知っていれば予想できます。

ブラッグの法則の厳しさ

ブラッグの法則は,「ブラッグ条件が満たされないとき回折強度はまったく観測されない」という非常に厳しい意味を持っています。 「ブラッグの法則を甘く見すぎている」人がかなり多いと思います。

そもそも,ブラッグの法則を前提とすれば,「装置によるぼやけ」が存在しない場合,ランダムな向きを向いた結晶粒が偶然回折条件を満たす確率はゼロになるはずです。 実際には「装置によるぼやけ」が存在するので,ある程度の数の結晶粒が回折条件を満たすのですが,Bragg-Brentano 回折計は非常に分解能の高い装置であり,現実的な条件でもかなり限られた数の結晶粒しか観測される回折強度に寄与しません。

回折に寄与する結晶粒の数

以下に少し単純化した考え方を示します。 普通の回折計は半径 200 mm 程度で,試料位置からX線源を見ると,幅 0.1 mm 長さ 10 mm 程度の長方形に見えます。 X線源が有限の大きさを持つので,回折面が本来の角度から少し傾いても回折条件が満たされるのですが,その許容範囲を立体角で表すと,(0.1 / 200)×(10 / 200) = 1 / 40,000 ステラジアンとなります。全立体角は 4π ~ 12.5 ステラジアンですから,ランダムな向きを向いた特定の回折面が回折条件を満たす確率は 1 / 40,000 / 12.5 = 1 / 500,000 …「50 万分の 1」になります。

試料面上でX線が照射される面積は 10 × 10 mm2 程度の広さですが,X線の侵入深さが 0.1 mm 程度だとすると,照射される体積は 10 mm3 程度になります。 この体積の中に大きさ 10 μm = 0.01 mm の結晶の粒は 10 / 0.013 = 10,000,000 …「一千万個」程度含まれます。 一千万個くらいあれば充分な数かというと大間違いで, この場合回折条件を満たす結晶の粒は平均的に 10,000,000 / 500,000 = 20 個しか存在しないことになります。

粒子統計

本来は試料粉末をホルダに充填したときに結晶粒の配向は確定しているはずなのですが,実際上は試料粉末を詰め直せばランダムに配向が変化するように見えるはずです。このことを粒子統計と呼びます。

回折に寄与する粒子数が平均 20 個の場合,統計的な変動は 201/2 〜 4.5 ですから,実際に回折条件を満たす結晶の数は 16 個のときもあれば 24 個のときがあっても不思議ではありません。 観測される回折強度の統計的なばらつきも 2 割程度になることが予想されます。

結晶粒の大きさが 5 μm = 0.005 mm の場合照射体積中の結晶の数は 10 / 0.0053 = 80,000,000 …「八千万個」になりますから,160 個の結晶粒が存在し,相対誤差は 1 割以下になることが期待できます。 この見積もりは少し厳し目の計算なのですが,もっと大目に見てやっても,オーダーが変わるほどではありません。

粉末回折測定のための試料調製

「指先でこすってざらついた感じがしなくなるまですりつぶせば良い」という伝説がありますが,この方法で粉末X線回折に使える試料粉末の細かさを判断するのは簡単ではなさそうです。 片栗粉(馬鈴薯澱粉)の平均粒径は 30-40μm,コーンスターチ(トウモロコシ澱粉)の平均粒径は 15 μm だそうです。 片栗粉やコーンスターチを指先でこすってざらついた感じはするでしょうか? 構造解析にたえる精度を実現するという以前に, 再現性のある粉末回折強度データを得るためには, 片栗粉やコーンスターチ程度の粒の細かさではまだ足りず, もっと細かくないといけないと考えるべきでしょう。

粉砕と分級の問題点

結晶粒が充分に細かくないといけないと言っても,やたら細かく粉砕すれば良いというわけでもありません。 過度の粉砕によって結晶構造が変化したり,粉砕器の表面が剥離して不純物として混入する場合がありますし,粉砕を行うと常に結晶粒の中に構造欠陥や歪みが導入されると考えるべきです。

激しい粉砕を避けるために細かい粉だけを取り出す分級という操作をすれば良いと思う人もいるかもしれませんが,分級にはまた別の問題があります。 網篩(あみふるい)の目開きは細かくてもせいぜい 20 μm なので,網篩で細かい粒のみを取り出す事の効果はあまり期待できません。 適当な液体に懸濁させて沈降速度の違いで分級する方法(沈降法)は効果が期待できますが,試料が多相混合物の場合,相によって沈降速度が異なりますから,分級によって相組成が変化してしまうことになります。

粉砕あるいは分級の操作は,測定試料が「本来測定したかったもの」と異なったものになる危険を常にともなうことを心得るべきです。

回転試料台の効果

回折に寄与する粒子数を増やすために最も効果的なのは,試料を回転させながら測定する事です。平板回転試料台あるいはスピナーと呼ばれるアタッチメントを取り付ける事で,回折に寄与する粒子数は概ね 100 倍くらいになり,誤差は 1/10 程度になることが期待できます。

ただし,回転試料台用の円形試料ホルダでは測定に必要な試料の量がやや多めになるなる欠点があります。また,駆動用モータの発熱が試料に伝わり,試料温度がやや高くなる傾向もあるようです。


理論的な基盤

新しい構造解析法の理論的な枠組みは一般性が高いもので,どのような誤差モデルを採用するかで多様な様相を示します。 この枠組みの中では,リートベルト法は「誤差がカウント数の平方根に比例する」という特殊な誤差モデルを仮定した一例にすぎませんし,今回提唱する「粒子統計誤差を考慮した誤差モデル」も一つの応用例でしかありません。

リートベルト法と新構造解析法の優劣を比較する事は無意味で,どのような誤差モデルを採用するべきかが議論の焦点となることにご注意ください。

ベイズ推定,最大事後確率推定,最尤推定,最小二乗法

ベイズ推定 Bayesian inference という方法は,証拠 evidence に基づいて,確率モデルの含むパラメータを推定する方法です。当初の推定を,新しい証拠が見つかるたびに繰り返し修正するという使い方をします。それぞれの証拠を用いる前の分布を事前確率 prior probability,用いた後の分布を事後確率 posterior probability と呼びます。

最大事後確率推定 maximum a posteriori (MAP) estimation は事後確率の最頻値 mode を選ぶことを意味します。この推定の結果は,ベイズ推定のように修正することはできなくなりますが,事前分布を利用する事ができます。

事前分布を一様分布 uniform distribution とした最大事後確率推定が最尤推定 maximum likelihood estimation です。「先入観を持たずに証拠のみに基づく推定」とみなすこともできますが,逆に事前確率が一様分布であるという先入観を持っているとも言えます。原理的には確率モデルが含む任意のパラメータの推定をすることができます。確率モデルとしては,正規分布以外にも指数分布,ポアソン分布など任意の確率モデルが使えます。

確率モデルを正規分布とし,標準偏差が既知であると仮定すれば,最尤推定は最小二乗法 least-squares method に帰着します。最小二乗法は確率論的な推定の方法としては,かなり特殊な場合に相当しますが,計算が比較的容易であるという利点があります。

確率分布が正規分布の場合だけではなく,ポアソン分布の場合でも,最小二乗解は最尤推定解に一致する事は Antoniadis et al. (1990) [Acta Cryst. A46, 693-711] が指摘している通りです。 でも,観測された回折強度は正規分布にもポアソン分布にも従いません。

リートベルト法と新解析法

1969 年オランダの結晶学者ヒューゴ・リートベルト Hugo Rietveld が粉末中性子回折データに最小二乗法を適用し,構造解析を行う方法を考案しました。 この方法(リートベルト法;Rietveld method)は多くの研究者により改良が加えられ,粉末X線回折データにも適用されるようになりました。1980年代以降コンピュータの普及にともなって急速に利用が拡大し,粉末X線および中性子回折データの解析法として中心的な役割を担うようになりました。

現時点でも,中性子回折データを解析するためにはリートベルト法で充分だと思われますが,粉末X線回折では軌道放射光などの高強度のX線源や,高効率の1次元・2次元検出器の利用が普及することにより,リートベルト法の適用を正当化できるような測定のための試料調製が非常に困難なものになりつつあると考えています。

畳込みとしての観測粉末回折強度

個々の確率変数 x1, x2, ..., xN の和で表されるような確率変数 x = x1 + x1 + ... + xN の統計的な分布のことを畳み込み convolution と呼びます。畳み込みの確率密度関数 f(x) は,個々の確率変数に関する確率密度関数 fj(xj) を使って,以下の式によって表されます。

f(x) = ∫… ∫ ∫ δ(x - Σj xj) f1(x1) f2(x2) … fN(xN) dx1 dx2 … dxN

粉末回折測定において観測される回折強度は,複数の結晶粒からの回折強度を足し合わせたものです。 だから粉末回折の観測回折強度は畳み込みとして表現されるのです。

畳込みのキュムラント cumulant はキュムラントの和として表されます。 平均や分散,三次の中心モーメントはキュムラントなので,簡単に計算できます。 粒子統計を議論するためにはこのことを前提として考えるのが一番容易だと思います。


2011年8月17日公開
2012年1月4日更新